私と純日記

主に週報

マジョリティにエネルギーを使い果たす前に

以前こんな思いを残していたのだけど。

ninatandiary.hatenablog.jp

 

こういうトピックには関心はあったけれどネットの記事を読むくらいの表層的な知識しかなかったため、ちゃんと構造を知ろうと思って本を読んだ。

正直少し難しかった。何回か読まないと理解しきれない本ではあったが、胸に刺さる言葉もいくつかあった。Kindleにメモした文章をいくつか引用しながら、今考えていることを書く。

差別は私たちが思うよりも平凡で日常的なものである。固定観念を持つことも、他の集団に敵愾心を持つことも、きわめて容易なことだ。だれかを差別しない可能性なんて、実はほとんど存在しない。

実際後輩から聴いた話だって、職場で起こっていることだ。わかりやすい過激なものでもなく、日常会話の中で湧いて出てくる。私とて後輩とて差別はある。あとで会話を反省することもあるし、気づいていないこともたくさんあるだろう。そんな程度の、本当によくあることだ。ただ、そんな程度のことが積み重なると、ひどく人の羞恥心や劣等感を生んで内側からえぐってくるからやっかいだ。

 

不平等という社会的不正義に対する責任を、差別を受ける個人に負わせる。そのため個人の人生は不安になる。病気になったり、失敗したり、いかなる理由であれ、マイノリティの位置に置かれないよう、たえず注意を払わなければならない。思いがけずマイノリティの位置に置かれたときには、事実を否定し、苦しみを耐え忍ぶために多くの時間を費やさねばならい。

このあたりが葛藤する気持ちの大きいところなんだろうなと思う。その集団のことを自分の中でバッサリ切り捨てられたり離れられたりすればいいのだけど、この社会の中で生きている以上、純度100%でそんなことは出来ない。

この前、後輩から話を聴いたとき彼女が名指しした管理職に、業務でわからないことを聞いた。丁寧に教えてくれているとは思うのだけど、その言葉の端々に見えない差別的な眼差しが感じられてしまった。たった30分程度話しただけで、無知であることや出身大学への偏見、売上(数値)至上主義に行き過ぎた思想、そんなことを感じざるを得ない会話だった。

なぜそれが不快なのかというと、集団のマジョリティ(権威的な立場)が発する思想は、自分自身が悪いのではという劣等感を刺激するからだ。そして劣等生はここにいてはいけないのではないか、という恐怖と隣合わせなのだ。職場ってそういう場所だし、もっと言えばマジョリティの生きる社会そのものがそういう場所だからだ。

社会的マジョリティを何かをひとつ失うだけで、社会的弱者に一気に反転しそうになるから本当に恐ろしいなと数年前は怯えていた。私はひどく心当たりがある人生のため、このあたりは劣等感の塊だし、当時の恐怖は今もなお常に隣り合わせだ。

世の中は公正で、人はだれでも努力した分だけ報われると信じるのだ。そう信じる理由は、そう信じなければならないからだ。世の中が公正だと信じているからこそ、長期目標を設定し、これからの人生を計画することができる。平穏な日常を維持するためにも、公正世界に対する信頼は必要である。

このような理由で、声を上げる人が煙たがられるのだという。みんなが信仰してきた世界が崩れ落ちるから。でも、本当のところは蓋をして見えないようにしているだけで、存在はしている。

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少し話は逸れるが、この記事でも書かれているけれど職場では感情が歓迎されていない。怒りのようなネガティブな感情は余計にだ。

ただ、我々は人間だし狭い世界で他人同士がコミュニケーションを取っているため、もちろんムカつくことなど死ぬほどある。押し込んだ怒りは、自身に向いたり陰湿な形で発散したり、なんだかいびつに発散される(もちろん昇華する怒りも多々ある)。

それもまた、我々の信じてやまない世界の姿なんだろう。怒りをあわらにしただけで穴が空いてしまう、脆いものなのだ。

 

 

私がこのトピックに関心を寄せるのは様々理由はあって、一時働けなくなるくらい精神的に病んで生活が破綻した経験があったり、「若くて女性だから」という冠言葉に悩んだり、まあいろいろあるのだけど、最近自分の仕事がそのチームの中で唯一のものになっていて、チームのみんなとサービスのことを考える視点が異なる故に対立構造になりやすい構図が出来上がっているなと感じることだ。

私のスキルとして足りないものを求められる割に、チームのみんなは理解しようとはしない。そう感じる。それは私がチームの中で、マイノリティの立場だからだろうか。おもしろそうと話を聞こうとする人もいれば、わからないことを煙たがるように「出来ない」とバッサリ切り捨てられることもある。表面上はみな、大事なことだもんねとは言うし話は聴いてくれる。でも、それと受け入れられているかどうかは、全然別のように感じている。

仲間を増やそうと、好意的な人たちを巻き込んで様々な取り組みをしているが、一人で出来ることには限界がある。チームの差別的な部分を変化させる力も勇気も、そこまで持っていない。

この前、半期面談で上司から「ちょっとがんばりすぎているかもね」と言われた。その言葉について、流してしまえばいいのだけど少し引っかかっていてぼんやり考えていたが、ブログを書きながら気づいた。がんばりすぎないと何かを打破出来ないくらいのエネルギーが必要なのだ、と。そういう状況がチームで出来ているのだと。

 

今、文字にしながらいろいろなことに気づいてきたのだけど、じゃあ来週からどう振る舞おうかと考えても、こういうトピックについて考え続けることくらいしか出来そうにないかな。そんな情けない言葉しか今のところ出てこない。

でも文章にできてすっきりはした。これを書いている間に風呂を沸かしていたのだが、つい盛り上がってしまい冷めてしまいそうだが、まあいいや…。